栃木弁 慈悲の瞑想
オリジナルはこちら 慈悲の瞑想Metta Bhâvanâ
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Wikipedia栃木弁とは?
お釈迦様は、その土地の人の言葉を使って誰にでも分かるように説法をされたそうなので、栃木弁に訳してみました。なんだか農村や田んぼが背景に見えてきそうな雰囲気になってきます・・・・。でも「~ますように」が「あんべように」はもう少しぴったり来る良い言葉がないのか、不満です(^^;;
慈悲の瞑想Metta Bhâvanâ
仏教を実践する上で、土台となる心を育てる
ヴィパッサナー冥想の実践に入る前に、まんず心を落ち着かせるために「慈悲の冥想」を行うんべ。基本的に「慈悲の念」「慈しみの心」があっと、実践の土台として大変役立つんだけっどなぁ。
人間っちゅうものは、自分は個別の「存在」だと思ってんさ。「オレは、オレだべ」 と思っていんだんべ。「オレは...」と思った瞬間で、オレらはこの世界の全体的 な生命のエネルギーから自分を別なものだと、ある個体的な存在だと思っちって自分と他とを区別すんだべ。
区別することによって、自分がビックラこくほど小さなもんになっちって、色々な問題が生じてくべ。人間が人生で出遭う様々な苦悩は、この「オレ」というその個体があるんだ……と思っだどころから生まれて来んだんべ。
かんだんに言えば、この「オレ」という実感さえ無ければ、問題は何も無いんだけっどなぁ。んだべけどさぁ、これはなかなか消えるものじゃなかんべんだけっどなぁ。誰かが体に触ったら「オレに触ったんべ」と感じるし、ちみでー空気が体に触れたら「オレは寒い」というように、かんたんに「オレ」という主語は出て来んべが、んだべけどさぁそのことは大問題なんだけっどなぁ。「オレ」が居っから「他人」が居て、だべから人間関係が悪くなったりすんべぇ。「オレ」が居っから、他の人間と競争するためにいろんな才能を身につけなくてはならなくなんべぇ。ホラ、あれだんべこのように、問題が生じて来んべ。
ほいで、何故「慈しみの心」が必要かというと、いぐら「オレがオレが…」と言っていても実際には、ここにオレが生きていられるのは他の生命が有っからなんだけっどなぁ。オレらが生きるために必要な栄養素にしても、他の生命を経由して体内に採り入れ るものが大部分だべし、ホラ、あれだんべ鉄分が必要だといっても、鉄の塊をガリガリとかじるわけにはいかねぇんだけっどなぁ。
また、オレらの体内には無数の微生物が住んでいて、なにかしら有用な活動をしてんさ。それらの生命に「これはオレの体げーら、出て行ってくろな」と言って追い出しちまったら、「オレ」も死んでしま~べよ。ひとつの体の中にも、多くの生命体が入り込みお互い助け合って共存してんべの だべ。
げーら、「オレ」を発見する以前に、生命に対する「やさしい心」というのは、 大変必要な条件になんべ。
どんな宗教でも共通して説いてんべぇのは、この「やさしさ」ということで、生命はお互いに助け合って生きてんべぇ……ということは重要なポイントなんだけっどなぁ。「慈悲の心」を育て上げられれば、自分は諸々の宗教に共通してんべ真髄を実践してんべのだと理解しても過言にはなんねぇべ。
仏教を実践する上で、土台となる心を育てる
次に実践だけっど、ここでは「全ての行動は心に基づく」という法則を用いてんさ。人間が行動する前には、必ず先立って「こう行動しよう」という心の働きがあんだんべ。
「慈しみ」を実践するきっと最もかんたんで早い方法は、心そのものを「慈しみの心」にしてしまうことだべ。
道徳や厳しい戒律を守ったり、困ってんべぇ人を助けたりといった行動をしていても、もしも心が清らかでなかったら、それほど意味が無ぇし、後でコワかったり、嫌になる可能性さえあんべ。でも心が「慈悲の心」になってさえいりゃあ、そこから先の行動は、どんなことでも素晴らしいもんに変わんだんべ。
げーら、幸福になるためには、人生で成功するためには、平和で無事で争いが 無く、堂々と美しく生きていぐためには、ただ「やさしい心」さえ作ればいいんだんべ。
それには、人を見たら自分とみる、相手を「他人」と見ずに「自分」としてプロジェクション(投影)してみることだべ。それさ出来た瞬間に、問題はハッキリ明確に見えてくべ。ホラ、あれだんべ、何か問題にぶつかってんべぇ人を励ましてぇ場合は、もし自分が相手の立場だったら、どのようにして貰ったら元気が出て、問題を解決できる力が湧いてくるだべなぁか……というように、相手の立場を自己に投影してみんだんべ。
それをうんまぐやるためには、やはり「慈悲」というものを育てなければなんねぇべ。「慈悲の心」を育てるためには、自分の心にと~と反復して言い聞かせてやればよいんだけっどなぁ。そうして「念じる」ことは、大変効果的なトレーニングになんべ。
この「慈悲の冥想」は、「ヴィパッサナー」とは違い、伝統的なごく普通の冥想法げーら、ある意味では入っていきやすい実践だとも言うべ。んだべけどさぁ、この慈悲を念じる実践は、なんたってヴィパッサナーの準備段階ということだけにとどまらず、全ての仏道修行において基礎になるもので、日常的にいつも念じてんべぇのが望ましいんだけっどなぁ。
まず最初に、自分自身に対して慈悲の心を作んべ。どんな生命にとっても、一番大事で最優先されるのは自分であっというのは、ごく当たり前のことげーら、まずそこのところは正直な心で「オレは幸せであんべように」と念じんべ。「幸せ」とはなんげー?と考える必要はなかんべよ。幸せとはいぐらなんでも良いことだべぇ……というふうに大雑把に理解しておけばいいんだけっどなぁ。
次に「オレの悩み苦しみ が無くなんべように」「オレの願いごとがかなえられんべように」、ほいでオレらは一応仏教の実践をしていっから「オレに悟りの光が現れんべように」と念じんべ。もし「悟り」という言葉が解かりにくければ「知恵が現れんべように」でも構いねぇべ。
二番目には、先程出てきたんべプロジェクションっちうことでもあんべが、自分の「親しい人々」、一番幸福になって欲しいと感じる人々がいっから、そのあんちゃん、ねぇちゃんら(自分のガキや両親、友人、身近な人々とか)のことを同様に念じんべ。
ほいで三番目に、やはり全ての生命が幸福であったほうが一番有り難てぇことだと 思って、ほいで努力して「生きとし生けるもの」の幸福を念じんべ。
この3段階で、あらかじめ決めておいた言葉を唱えて「念じ」ていくべ。言葉は、静かに心にしみこんでくよーに、てーねーに丹念に念じんべ。(何人かで一緒に実践すっときは声を出して唱えることもあんべが、一人で実践すっときは、声を出さなくてかまいねぇべ)姿勢は背筋と頭をまっつぐにして、目を閉じてくろな。
『慈悲の冥想』の言葉
オレが幸せであんべように
オレの悩み苦しみがなくなんべように
オレの願いごとが叶えられんべように
オレに悟りの光が現れんべように
オレが幸せであんべように(3回)
オレの親しい人々が幸せであんべように
オレの親しい人々の悩み苦しみがなくなんべように
オレの親しい人々の願いごとが叶えられんべように
オレの親しい人々にも悟りの光が現れんべように
オレの親しい人々が幸せであんべように(3回)
生きとし生けるものが幸せであんべように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなんべように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられんべように
生きとし生けるもきっとも悟りの光が現れんべように
生きとし生けるものが幸せであんべように(3回)
これまでがワンセットだけっど、さらに続きがあんべ。
次は、自分が嫌いな人、苦手な人のことを思い浮かべんべ。嫌いな人のいねぇべ人はまずいねぇべはずげーら、それらの人を心に思い浮かべて、それらの人のために「慈悲の冥想」を実践すんだべ。
さらに続けて、自分のことを嫌ってんべぇと思われる人々のことを思い浮かべて、それらの人々にも「慈悲の冥想」を実践すんだべ。
オレの嫌いな人々も幸せであんべように
オレの嫌いな人々の悩み苦しみがなくなんべように
オレの嫌いな人々の願いごとが叶えられんべように
オレの嫌いな人々にも悟りの光が現れんべように
オレを嫌ってんべぇ人々も幸せであんべように
オレを嫌ってんべぇ人々の悩み苦しみがなくなんべように
オレを嫌ってんべぇ人々の願いごとが叶えられんべように
オレを嫌ってんべぇ人々にも悟りの光が現れんべように
ほいで最後にもういっぺん、
生きとし生けるものが幸せであんべように(3回)
皆さん、どうか毎日、日常の生活の中で時間を見つけては、この「生きとし生けるものは幸せであんべように」という言葉を、絶えず持続して念じてくろな。そうすれば、必ず短い間に自分の心が変わっていくことに気づくべ。
特にこれは持続して実践すっということがいちばん大切なことだべ。持続していけば、やがてさまざまな禅定を作っていくことも可能になっていくんだけっどなぁ。
(オレはこんなごじゃっぺばっかし、やってっがら、とうとえんがみて、禅定も何もないんだべなぁ)
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